霊枢勉強会報告
報告『黄帝内經靈樞』 陰陽清濁(いんようせいだく) 第四十 第一章NEW
講師 :日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生日時 :令和七年(2025年) 9月14日(日) 第53回
会場 :大阪府鍼灸師会館 3階
出席者:会場15名
『黄帝内經靈樞』 陰陽清濁(いんようせいだく) 第四十 第一章
○22 黄帝曰。 23 願聞人氣之清濁。
22 黄帝(こうてい)曰(いわ)く、 23 願わくは人(ひと)の氣(き)の清濁(せいだく)を聞かん、 と。
(解説)
*おおむね、このようなことを言っていようか。
黄帝(こうてい)が言った。 「十二經水(けいすい)と呼ばれる十二本の河に清濁があるように、 ひとのからだの十二経脈にも清濁というものがあるのか、 それを聴きたい。」
○24 歧伯曰。 25 受穀者濁。 26 受氣者清。
24 歧伯(きはく)曰(いわ)く、 25 穀(こく)を受(う)くる者(もの)は濁(にご)り、 26 氣(き)を受(う)くる者(もの)は清(きよ)し。
(解説)
*訳してみる。
歧伯(きはく)が言う。 「清濁(せいだく)の濁(だく)というのは何かというと、これは食べ物から来ている。 食べたものが濁氣(だっき)というものの根底にある。 氣(き)つまり天氣(てんき)、空中の氣(き)であるが、これを呼吸し取り込んだものが淸氣(せいき)である」
*呼吸をすること、食物を食べること、それらによって清濁(せいだく)という二つの氣(き)の状態が、からだの中に生じる。 気の状態の濁ったものを濁氣(だっき)、 気の状態の清(す)んだものを清氣(せいき)と言う。 この二つがからだの中にある。
*楊上善(ようじょうぜん)はこのように言う。
「 受穀之濁、 胃氣也、 受氣之清、 肺氣也。【 穀(こく)の濁(だく)を受(う)くるは、 胃(い)の氣(き)なり。 氣(き)の清(せい)を受(う)くるは、 肺(はい)の氣(き)なり。】 」
*張介賓(ちょうかいひん)という人はもう少し、くわしく説明している。 言っていることは楊上善(ようじょうぜん)のものと基本的には同じである。
*濁氣(だっき)というのは、胃(い)に入ってきた食べ物を消化・吸収する能力をして、そこから出て来た「氣(き)」を濁氣という。 その氣(き)は肺(はい)のほうに行って、やっと營衞(えいえ)となる。 では気血(きけつ)というものは、どこに来るのだという問いがあろう。 氣血というものは栄衛(えいえ)の発明される以前からある。
*氣(き)というのは、もともと湯気とか、そういうものである。 ひとで言えば呼吸である。 血(ち)というのは、文字通り血液そのものである。 しかし營衞(えいえ)というのは、そういうものではない。
*たとえば経絡治療(けいらくちりょう)などでは血(ち)と氣(き)をどのように分けるのかというと、こういうふうな説明になる。 氣(き)の病(やまい)と言えば、かたちに変化のない痛み、神経痛みたいなものである。 そして氣(き)の病(やまい)が進むと血(ち)に影響して、 痛いほうの大腿部などが痩せてくる。 形に変化を生じさせるものが血(ち)であるという分け方をする。
*もともとの中国医学、『素問(そもん)』や『靈樞(れいすう)』の中のもので言えば、気血(きけつ)というよりも、 むしろ營衞(えいえ)というもののほうが、ひとのからだの生命維持のメカニズムを説明する言葉だと思う。
○27 清者注陰。 28 濁者注陽。
27 清(す)める者は陰(いん)に注ぎ、 28 濁(にご)れる者は陽(よう)に注ぐ。
(解説)
*清(す)んでいるものは陰(いん)の経脈、あるいは「蔵(ぞう)」に、 濁っているものは陽(よう)の経脈、あるいは「府(ふ)」に注いでからだを機能させる。
*この部分の解釈について楊上善(ようじょうぜん)という人はこのように解釈している。
楊上善曰、 「陰、肺也。」、「陽、胃也。」(陰は肺なり。 陽は胃なり。)
*周海平(しゅうかいへい)という人はこのように記している。
「注: “行”、“走”義。《漢書・溝洫志》 顔師古注: “注,引也。” 《文選・宋孝武宣貴妃誄》 張銑注: “引,將行也。” 《文選・北使洛》 李善注: “引,猶進也。”
*「注ぐ」というのは、「行く」とか「走る」という意味を指す、そんなふうに他の書物を引いて解釈している。
○29 濁而清者。 30 上出于咽。 31 清而濁者。 32 則下行。
29 濁(にご)りて清(す)める者は、 30 上(のぼ)って咽(のど)より出(い)づ。 31 清(す)みて濁(にご)れる者は、 32 則(すなわ)ち下行(かこう)す。
(解説)
*おおむね、このようなことを言っていようか。
「食べたものは濁りであるが、濁りの中にも清(す)めるものと言われるものがある。 それが上って、のどより出る、そんなものがあるのだ」
*これに対する解釈はさまざま有る。
*楊上善(ようじょうぜん)はこのように言っている。
「穀氣濁而清者、 上出咽口、 以爲噫氣也。【 穀氣(こくき)の濁(にご)りて清(す)めるものは、上(のぼ)って咽口(いんこう)に出(い)づ。 以(もっ)て噫氣(あいき)を爲(な)す。 】 」
*噫氣(あいき)は噫(おくび)、げっぷのことである。
*「清(す)んで濁れるもの、それは下行(げこう)する」
これに対する解釈もさまざまである。
*楊上善はこのように言っている。
「穀氣清而濁者、 下行經脈之中、 以爲營氣。【 穀氣(こくき)清(す)みて濁(にご)れるものは、 下(くだ)って經脈(けいみゃく)の中に行き、 以(もっ)て營氣(えいき)と爲(な)す。】 」
*上に行くものは噫(おくび)、げっぷで、 下に行くものは經脈(けいみゃく)に流れていると解釈されているが、あまり明解な解釈ではないと思う。
*澀江抽齋(しぶえ ちゅうさい)も、楊上善の注を書くに留めている。 この部分については、よくわからなったように思う。
*伊澤棠軒(いざわ はっけん)という人はこのように記している。
寫『靈樞上層表記(れいすうじょうそうひょうき)』(九州大學付属図書館所蔵本)787頁云、 「今案楊注爲噫氣者不妥。【 今、案ずるに楊注(ようじょうぜんの注)、 噫氣(あいき)と爲(な)すは、ただしからず。 】」
*毎回の配布資料には、諸家の校注をつけている。 諸家の校注を付けないで、訳文だけを書いておけば良いのでは、という見方があるかもしれない。 しかしそれは、まったく違う。 文章の校勘(こうかん)などを事細かく徹底的に行ったのちでなければ、文章を訳することは出来ないものと思う。
*中国のもので良いのではという意見もあろう。 中国のものは一見すると徹底しているように見えても実は杜撰な部分も多い。 注解を全部集めて比較すると、意外と杜撰だとわかる。 昭和の時代は、『太素(たいそ)』と『甲乙經(こういつきょう)』と『類經(るいきょう)』との比較ぐらいで良かった。 しかし現在はそんな時代ではない。 やるのであれば徹底的にやるのが良いと思う。
*『霊枢』の森を歩いてみませんか。 毎月休まず第二日曜午前10時から12時まで、大阪府鍼灸師会館3階です。 勉強会の案内につきましては本会ホームページをご確認下さい。
次回は 11月9日(日)、『霊枢』「淫邪發夢(いんじゃはつむ) 第四十三」 です。
(霊枢のテキスト〈日本内経医学会 発行,明刊無名氏本〉 は現在2冊の在庫があります。1冊1,600円です。受講申し込み時、または当日、受講受付けにてお問い合わせください)
(霊枢勉強会世話人 東大阪地域 松本政己)
































