霊枢勉強会報告
報告『黄帝内經靈樞』淫邪發夢(いんじゃはつむ)第四十三 第一章
講師 :日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生日時 :令和七年(2025年) 11月9日(日) 第55回
会場 :大阪府鍼灸師会館 3階
出席者:会場16名
『黄帝内經靈樞』 淫邪發夢(いんじゃはつむ) 第四十三 第一章
35 心氣盛。 36 則夢善笑恐畏。
35 心氣(しんき)盛(さか)んなれば、 36 則(すなわ)ち善笑(ぜんしょう)恐畏(きょうい)を夢みる。
(解説)
*澀江抽齋(しぶえ ちゅうさい)はこのように書き込んでいる。
坊本、 『甲乙經』、 「善」作「喜」、 「笑」下有「及」字、 「畏」作「怖」。
*澀江抽齋(しぶえ ちゅうさい)が「坊本(ぼうほん)」と言う場合は、 江戸時代の通常のテキストである『類經本(るいきょうぼん)』か 『日本寛文三年本(にほん・かんぶん・さんねんぼん)』の何れか、または、その両方である。
*「笑う」と「恐れる」というものは対極にあるが、 心(しん)の氣(き)が盛んであって、 腎(じん)の氣(き)が虚(きょ)すという状態になり、 善笑(ぜんしょう)と恐畏(きょうい)という矛盾した両方が出てくる。
*張介賓(ちょうかいひん)は、このように言う。
「心在志爲喜、 在變動爲憂也。 【 心(しん)は志(し)に在(あ)りては喜(き)を爲(な)す。 變動(へんどう)に在(あ)りては憂(うれ)いを爲(な)す。 】 」
*ひとの笑いは「微笑む」程度がもっとも良い。 「高笑いする」、 「げらげら笑う」というのは「心(しん)」が盛んになった状態の一つである。 どのように考えてもアンバランスな状態と言える。 なにしろ元気が良くてハイテンションの人を診るときは、注意を要する、 常にそのように思う。 げんなりして元気がないというものも困るけれど、 臨床の上では元気いっぱいというのも、 注意を要する。
○37 脾氣盛。 38 則夢歌樂。 39 身體重不舉。
37 脾氣(ひき)盛(さか)んなれば、 38~39 則(すなわ)ち歌樂(かがく)、 身體(しんたい)重くして舉(あ)がらざることを夢みる。
(解説)
*38節の「歌樂(かがく)」とは、歌を唄うということである。 39節の「身體(しんたい)重くして」というのは、からだがだるいということである。 それが「舉(あ)がらざる」 ということなので、 からだがだるくて動かない、 という状態である。
*頻繁(ひんぱん)にカラオケに行ってむやみに唄うという人は、 臨床的に診ると、 ある種のアンバランスが生じていると言える。 歌う人のことを見て、 そのすべての人を病気だと言うわけでは無いけれど、 極端に走る場合は、 そういうこともウォッチングしておかないと、 いけないように思う。
*馬玄臺(ばげんだい)は、このように言う。
「脾之聲爲歌、 而其體主肉也。 【 脾(ひ)の聲(こえ)は歌(か)を爲(な)す。 而(しか)して其(そ)の體(たい)は肉(にく)を主(つかさど)る也(なり)。 】 」
○40 腎氣盛。 41 則夢腰脊兩解不屬。
40 腎氣(じんき)盛(さか)んなれば、 41 則(すなわ)ち腰脊(ようせき)兩解(りょうかい)して屬(つ)かざることを夢みる。
(解説)
*40節の「腎氣(じんき)盛(さか)ん」というのは、 腎(じん)が実している状態を指す。 中国医学の考え方では腎(じん)の氣(き)が虚(きょ)すというのが通常的な考え方である。 ただし腎(じん)が虚(きょ)しているということを前提として、 一時的なものとして、 心(しん)の氣(き)が虚(きょ)して腎(じん)が盛んになる、 あるいは、脾(ひ)の氣(き)が虚(きょ)して腎(じん)の氣(き)が盛んになるという場合があるので、 そういう意味での「腎氣(じんき)盛(さか)ん」である。 腎氣(じんき)が虚(きょ)すということが中国医学のすべてである。 その関係性がある中で一時的にということである。
*馬玄臺(ばげんだい)の注
「腰脊兩解不相連屬、 以腰爲腎之府也。 【 腰脊(ようせき)兩解(りょうかい)相(あい)連屬(れんぞく)せず、 腰(こし)を以(もっ)て腎(じん)之(の)府(ふ)を爲(な)す。 】 」
*41節の「腰脊(ようせき)兩解(りょうかい)」というのは、 腰(よう)は、こし、 脊(せき)は脊柱のこと、 腰全体と脊柱が解けてしまって力が入らないということを言っていようか。 まっすぐ立って、あるいは、まっすぐ坐っていられない状態を指していよう。 「屬(つ)かず」というのは、意のままに動かないということである。
○42 凡此十二盛者。 43 至而寫之。 44 立已。
42 凡(およ)そ此(こ)の十二盛(じゅうにせい)は、 43 至(いた)りて之(これ)を寫(しゃ)すれば、 44 立(た)ちどころに已(い)ゆ。
(解説)
*43節の「至りて」というのが、むつかしい。 郭靄春(かくあいしゅん)氏は、その著書にこのように記す。
至而寫之/「 “至” 猶云 “了解”。 《呂氏春秋・當染》高注: “至猶得也。” 《先己》高注: “得猶知也。” “至而瀉之” 是謂了解邪之所在而用瀉法。 」
*おおむねを訳してみる。
「至(いた)りて之(これ)を瀉(しゃ)す」 とは、 「 “至(いた)る” とは猶(なお) “了解” を云(い)う。 《呂氏春秋(ろししゅんじゅう)》髙注: “至(いた)るとは猶(なお)得(う)るなり。” 《先己》高注: 得(う)るとは猶(なお)知るなり。“ ”至(いた)りて之(こ)れを瀉す(しゃ)とは、 是(こ)れ、邪(じゃ)のあるところを了解して瀉法(しゃほう)を用(もち)いるを謂(い)う。“ 」
*「至りて」というのは、 どこの五蔵(ごぞう)が悪いのかを了解した上で、 瀉法(しゃほう)を行えと言っている。 では、どこを瀉法(しゃほう)するのか、 それが問題になる。 五蔵(ごぞう)を治療するには、どうしたら良いのかという問題が生ずる。 中国医学では、「五蔵(ごぞう)」というものは直接ふれることが出来ないという前提がある。 もちろん「肺兪(はいゆ)」とか「心兪(しんゆ)」、「肝兪(かんゆ)」などの五蔵(ごぞう)の名前のついた、つぼというのはある。 直接ふれることのできない「五蔵(ごぞう)」に、手を届かせるために、經脈(けいみゃく)があり、 經脈(けいみゃく)の上につぼがあると考えるべきだと思う。 では兪穴というのは、どういう意味があるのかという問いもあろう。 これは、また別の問題としてある。
*わたしは、手の届かない五蔵(ごぞう)のために、 蔵(ぞう)を陰(いん)、 經脈(けいみゃく)を陽(よう)と考えて、 陽(よう)の部分を使って陰(いん)の部分を治療するというようなものだったのではないかと考えている。
*どこを使って、 どのように治療するかということは、ここには書かれていないが、 瀉法(しゃほう)するという以上は、 五蔵(ごぞう)に関係する經脈(けいみゃく)、 あるいは經脈(けいみゃく)の上のつぼを施術するということだと思う。
*『霊枢』の森を歩いてみませんか。 毎月休まず第二日曜午前10時から12時まで、大阪府鍼灸師会館3階です。 勉強会の案内につきましては本会ホームページをご確認下さい。
次回は2026年1月11日(日)、『霊枢』「外揣 第四十五」です。会場、WEBでお待ちしています。
(霊枢のテキスト〈日本内経医学会 発行,明刊無名氏本〉 は現在1冊の在庫があります。1冊1,600円です。受講申し込み時、または当日、受講受付けにてお問い合わせください)
(霊枢勉強会世話人 東大阪地域 松本政己)
































