公益社団法人 大阪府鍼灸師会

素問・霊枢報告

霊枢勉強会報告 令和五年一月

講師 :日本鍼灸研究会代表 篠原 孝市 先生
日時 :令和五年(2023年)1月8日(日)第22回
会場 :大阪府鍼灸師会館 3階
出席者:会員22名(うちWeb15名) 一般18名(うちWeb7名) 学生13名(うちWeb12名)
*1月度は会場19名、ネット配信での受講が34名でした。

○『黄帝内經靈樞』經脈第十(その三)

○はじめに

*流注(るちゅう)について
経脈(けいみゃく)というものには流注がある。また経脈には経脈病證(けいみゃくびょうしょう)というものがある。これは、ある病態を提起した時に、どの経脈が病気になっているかということである。
経脈についてのもっとも古い資料、今から2000年以上前の、この篇からもうかがうことが出来る。なぜこんな奇妙なことを言うかというと、流注なしに病気のある経脈を上げることが成り立つのかという問題が一つあるからだ。

流注なしに病態のある経脈を上げること、それを成り立たせる考え方が出てきた始めは、経脈は脈診で判断できるというふうに考えられた時だと思う。流注で判断する場合、今日講義する足の少陽胆経(しょうようたんけい)、足の厥陰肝経(けついんかんけい)でもそうであるが、どこをどのように流れているかということに意味がある。そのように考えるのが当然であると思う。

脈診によって対象とする経脈が判断できるとなった時に何が起こったのか、ここで流注に表れている症状や、様々な所見、これには皮膚を触って感じる硬結や圧痛などがあるが、それがどのようなものであれ脈診だけで経脈の状態が把握できるという考えが成り立つようになった。

そうした時にこんなことが起こった。
当初は流注の反応で得られる診断と脈診によって得られる診断が一致するものと思われていたのだろう。
しかし実際には、それはうまくいかなかった。流注で得られる診断と脈診で得られるものが、必ずしもイコールにならないとは、おそらくすぐに気がついただろうと思う。これは遠く2000年以上前のはなしというだけでは無く、現在でも同じことが言えると思う。


流注(るちゅう)というものは、「線」のかたちで記述されている。そして「線」として記述された後は、誰もが経脈を「線状」としてしか認識できないというふうになった。この経脈の流注の上での反応の有無、あるいは陰の経脈と陽の経脈を相対的に比べた場合の圧痛などの反応の違い、それが成り立つのだとすれば、そういうことの意味はどういったことなのか、それは現代にいたるまで問題になっているところではないか。

もう一つ注意しておかないといけないのだが、経脈を考えるにおいてテキストで流注を読んで、流注がわかったら終わりとはならないということである。経脈というものは、どのようにしたら経脈が病気だと、とらえられるのかということが一つの問題になる。たとえば「手の陽明大腸経(ようめいだいちょうけい)」の経脈について、その流注(るちゅう)に圧痛が現れることと、その経脈が病気なのかと判断するかどうかは、これは全く別のことだと思う。「手の陽明大腸経」の流注に圧痛が出ている、押したら痛い、触ってみると他の部位より反応があるから、そこが病気だというのは簡単すぎる。古代はもちろん現在でも、わたしたちの治療においても、そのままでは使えないと思う。


「三部九候診(さんぶきゅうこうしん)」のようなからだのあちらこちらの動脈の部分で脈を診ることによって経脈の状態をみる方法がある。その後に『霊枢(れいすう)』「經脈篇(けいみゃくへん)」に書いてある経脈を診るための方法、「人迎気口診(じんげいきこうしん)」あるいは「人迎脈口診(じんげいみゃくこうしん)」と呼ばれる方法が登場してくる。これは、陰と陽の経脈、人迎(じんげい)と気口(きこう)の脈拍の強弱の比較によって、どの経脈が病気であるかを判断する方法である。この時には、もちろん虚実(きょじつ)というものが問題になる。

**人迎: じんげい、総頸動脈拍動部。
**気口: きこう、あるいは脈口(みゃっこう)という。橈骨動脈拍動部。


経脈というものを簡単に経脈の病気とするのではなくて、虚實(きょじつ)という状態があるのだということをはっきり打ち出したという意味では、この「經脈篇(けいみゃくへん)」はとても大きい。もともと経脈というものは虚實(きょじつ)と考えられずに、経脈が変動したら、その経脈が病気だということが考えられていた。経脈を虚實(きょじつ)で考えるようになると、ある経脈が虚(きょ)したり實(じっ)したりすることで、環(たまき)の端無きがごとしという経脈の関係から、すべての経脈に波及するということが考えられるようになった。
たとえば手の太陰肺経(たいいんはいけい)が虚(きょ)した場合に、手の陽明大腸経(ようめいだいちょうけい)が実(じっ)したと相対的に捉えられるとすれば、肺経と大腸経が表裏に配当されているということは、肺経が虚した場合に相対的に大腸経が実することが起こる、そのような判断が生じてきたのだと思う。

**環(たまき)の端(はし)無きがごとし: 【荀子王制】めぐりめぐってきわまる所のないことにいう。(『広辞苑 第七版』岩波書店発行より引用)


『靈樞(れいすう)』「經脈篇(けいみゃくへん)」に書かれている経脈にもとづく治療というのが、どんなふうに行われてきたのかは、まだ全体がわかっているわけではない。とても古い時代の十二ある経脈の一本一本が病気であるという考え方から、十二ある経脈の虚実(きょじつ)というところに話が展開して行く。そうすると当然ながら虚実というものが、経脈の相互の関係というところになってくる。経脈相互の関係ということになってくると、経脈の全体が動くということになり、全体の中のどの部分に施術をすれば、どのように治まるのかというところが問題になってくる、そういうことだと思う。



「經脈篇(けいみゃくへん)」を見ると、流注と、古くから伝わってきてこの本の成立時には、すでに使われなくなっていたかも知れない経脈病證(けいみゃくびょうしょう)と、当時最新であった人迎脈口診(じんげい・みゃくこうしん)による経脈判定、これらが相まったかたちで、この篇の中に整ったかたちで記述されているように見える。古いものを残し、新しいものを加え、その時代までの粗い経脈の流注に、経穴の部位の情報を取りこみながら、流注をきれいな線の状態にまとめたというものが、この篇の文章なのではないかと思う。流注がとても整っているということは、人工的なものが加わっているとも言える。ただ、あるがままの経脈というものはないのである。経脈というものは、まず言葉によって規定されている。言葉によって見えている風景が意味を持っているということだ。


(素問勉強会世話人 東大阪地域 松本政己)

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